報徳思想を読み直す

二宮尊徳報徳思想は、しばしば封建的精神論と思われています。

 芝刈り縄ない草鞋をつくり
 親の手を助け弟を世話し
 兄弟仲良く孝行つくす
 手本は二宮金次郎

こんな戦前の小学校唱歌だけを聞いていれば、その誤解もやむを得ないのですが。

しかし、彼の著作を素直に読んでみると、尊徳が幕末期に表れた最初の近代主義者の一人であることがわかります。

彼が特異なのは、19世紀ヨーロッパの進歩思想と全く無縁なところからあらわれた近代主義者であるところです。「進歩思想を放棄しつつ、かつ近代主義者であるとするなら、どうあるべきだろうか?」こういう現代的な問いに対して、報徳思想はクリアな回答を用意しています。

二宮尊徳の言葉から、私なりに大事だと思うところを抜き書きしてみます。

-------

■善悪は人間の都合で決まる(功利主義)

『裸で生まれてきた人間は、家が無ければ雨露をしのげない。そこで、人道を立て、米を善とし、雑草を悪とし、家をつくるをの善とし、こわすのを悪とした。これはすべて人のためにたてた道であり、それゆえ人道という。天理から見れば、善悪はない。』
 
『政り事をたて、教えを立て、刑法を定め、礼法を制して、やかましく世話を焼いてようやく人道は立つのである。それを天理自然の道を思うのは誤りだ。』
 
老子の道は「人として生まれたものだから死ぬのは当たり前、だから嘆くのは間違っている」とでもいうものだ。人道はそれと違い、他人の死を聞いても、気の毒なことだ」と嘆くのを道とする。』

 

『人間社会に用の無いものは尊ぶに足りない。広がれば広がるほど世の害である。』
 
『見渡せば 遠き近きはなかりけり おのれおのれが 住処にぞある』

  
 人間にとって都合のよいことが「善」であり、都合の悪いことが「悪」である。天理から見れば善も悪もない。こういう考え方は、ベンサムやJSミルが同時代にイギリスで主張していたところの「功利主義」にピタリと一致します。
 
 道徳を神や天といった超自然的なものから解放し、人間中心に解釈しなおしたという意味で、尊徳は正しく近代主義者です。

 

■譲り合いが繁栄を生む(反競争主義)

『商売において、来るのは押し譲ったものが帰ってくるのだ。農業において、種をまき、肥料をやり、耕した結果、実がなるのと同じ理屈だ。買う人のことを思わず、貪るばかりでは、その店が衰えるのは目に見えている。』

 

『富者は譲りの道を行うのが良い。推譲を行うものには富貴・栄誉が訪れ、行なわないものからは富貴・栄誉が去る。』

 

『富貴を求めて留まるところを知らないのは凡俗の人の共通病だ。そのため富貴を長く保つことができない。天命を有する富者でありながら、なお自分の利益のみを求めるならば、下の者も利益を求めずにはいられない。もし上下たがいに利を争ったならば、禍が起きるのは間違いない。』

 

 尊徳は努力の価値を称揚する一方で、自由競争的な優勝劣敗は明確に否定しています。むしろ努力して自らが豊かになった後は、積極的に周囲に譲っていくことを繰り返し進めています。周囲に富貴を譲ることが、自らの富貴を永続させる最良の方法である、ともいいます。
 
 ヨーロッパの近代主義者の多くが、優勝劣敗的な自由競争主義者であったことを思うと、その違いは明らかです。これは、尊徳の生きた江戸後期が、人口増加を終えた後の定常社会であったためではないでしょうか。

 

■豊かさを目的とする(精神は手段であり、目的ではない)

『心の荒廃を一人が開けば、土地の荒廃は何万町歩あっても心配はいらない。』
 
『明日助かることだけを思って、今日までの恩を忘れるのが貧の道である。明日助かることを思うにつけて、昨日までの恩を忘れないのが富の道である。だから、たとえ明日食べるものが無くても、釜と椀を洗って餓死するのがよい。』

 このあたりが尊徳の思想の微妙な、そして面白いところです。彼はかなり「思えば叶う」的な言説をあちこちに残していて、だからこそ戦前の修身の教科書にもなったわけですが、よく読むと、常に「豊かになるためには、まず心を改めることだ」という論理になっています。つまり、豊かさが目的であり、精神は手段である。

 裏を返せば、豊かさにつながらないような精神の在り方は「悪」であり、豊かさを生む心の在り方が「善」である、と考えているわけです。

 

■現実主義(反理想主義)

『どんな良法仁術といえども、村中に1戸も貧者がいないようにするのは難しい。なぜなら、人には勤勉・怠惰があり、強弱があり、智愚があり、積善もあれば不積善もあり、前世の宿縁もあり、これらはどうしようもないからだ。こういう貧者は、その時々の不足を補って、どん底に落ちないようにするしかない。』

 

『人為をゆるがせにして、天道を恨んではならない。庭先の落ち葉は天道である。これを払うのが人道である。天道に追い立てられて、一日中落ち葉を掃いているのは愚かなことだ。しかし、人道をゆるがせにして、まったく落ち葉を掃かないのは人の道ではない。一日1回掃くのが人道だ。同じように、教えても直らないからと言って憤慨してはいけない。言っても聞かないからと言って何も言わないのは不仁である。教えても直らないと言って憤慨するのは不智である。不仁と不智を恐れて、自分のやるべきことを全うすべきだ。』

 

 『道の行われるとおこなわれないとは天である。人力を持ってどうにもなしがたい。このときになっては、才知も役立たず、弁舌も勇気も役立たない。芋種を土中に埋めて置くように、ジッと耐えるのが一番である。』

 

 尊徳は「人は思い通りにならない、そういう現実をふまえて行動すべきだ」ということをあちこちで述べています。世の中にはダメな人、人に害をなす人はいるし、そういう人を矯正することは残念ながらできない、という現実主義が尊徳の基礎にあります。

 

■組織論への配慮

『善人や正直者を挙げて、厚く用いれば、かならず4・5年で整然とした仁義の村になることは間違いない。』

 

『村の復興は、善人を厚く用いるに限る。しかし、善人は隠れていて出てこない。努めて引き出さなければ、出てこないものだ。』

 

『たとえ誹って当然な人物であっても、人を誹るのはよろしくない。人の過ちをあらわすのは罪悪だ。人を褒めるのはよいことだが、ほめすぎはよくない。自分の長所を人に説くのはもっと悪い。人の嫌がることを決して言ってはならない。みずから、禍の種をまくことになる。』

 

 このあたりになると、かなり現実的な「組織を動かす方法論」になってきます。こういう言葉を見ると、日本人の集団を動かす方法論は、江戸時代からほとんど変わっていないことを痛感します。
 
 彼がこういう組織論を大切にしているのは、彼のプロジェクトが「農村復興」であり、外部からコンサルタントして介入し、農民の心をつかみ、動かしていくことこそが仕事であったからです。

-------

 

こう読み直すと、報徳思想が持つ現代的な魅力が伝わると思うのですが、いかがでしょうか。

 最後に、私の好きな尊徳の言葉を引いて、終わります。

 

『遠きをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す。
 それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う。
 まして春まきて秋実る物においてをや。
 故に富有なり。
 近くをはかる物は 春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず
 唯眼前の利に迷うてまかずして取り
 植えずして刈り取る事のみ眼につく。
 故に貧窮す。』