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塚越寛氏について -稲盛和夫氏との比較-

 

「いい会社をつくりましょう」「リストラなしの年輪経営」などの著書を通して、伊那食品工業の塚越寛氏の経営論に触れた人は少なくないと思います。

表面的に見るとスピリチュアリズムに立脚する稲盛経営哲学に似ていますが、その内実はかなり異なり、塚越氏の経営論は功利主義に立脚している、というのが私の見立てです。

そのあたりを塚越氏の「いい会社をつくりましょう」と稲盛氏の「京セラフィロソフィ」を比較しながら、整理してみます。

 

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1)人生の目的について

人生を楽しむこと、幸福に暮らすことが最も大切だという考えも、いくつもの国の人たちから身をもって教えてもらったことです。日本では見失われがちな「人生の真の目的」を確かめることができました。 

人間の営みはすべて、自分たちの生活の向上のためになされるものです。

「事務所なんて質素でいい」とは、私は思いません。みんなが一生懸命に働いた「勲章」「ご褒美」として、快適なオフィスができたり、工場の環境が整備されたりすると、当然みんなは幸せです。  

文化面での社会貢献を志す経営者の持続的な行動があれば、その会社は本当に「たくましい会社」になれるのだと思います。なぜなら、社員も地域社会も、その会社の営みによって幸福感を増すことができます。幸福感は人間が生きる目的なのですから。

塚越氏の原点は「人間は一生を楽しく快適にすごすために生きている」という人生観にあります。これは、彼が青年期の3年間、結核で病に臥せっていた経験から得た確信であると、さまざまなところで語っています。

稲盛氏が京セラフィロソフィで語る、次の「人生の目的」と比較するとその違いは歴然です。

人生の目的はどこにあるのでしょうか、もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。

 稲盛氏が、究極的な価値をスピリチュアルな次元におき、この世はそのための修行の場だと考えているのに対し、塚越氏は世俗主義者です。

 

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2)企業の成長について

成長の限界」ということをいつも念頭に置いています。パイの限界に至るまでの時間を長くするために、成長を限りなく抑えて、低成長で行くべきだと考え、実行してきました。いつでも適正な成長度を見極めながら進むことが、企業永続の原点だと思います。  

歴史が教えているにもかかわらず、急で無理な成長の結末として、社員や仕入先、納入先を路頭に迷わせ、工場閉鎖などによって地域社会に迷惑をかけている経営者があとをたちません。末広がりの成長をつづけて永続するためには、急成長はマイナスなのです。成長は必ずしも善ではありません。  

大切なのは、その会社にとっての「最適成長率」を見極めることです。会社の業種や規模、歴史や時代背景、マーケットの変化をはじめ、地球環境、関わる人々の幸せ、人に迷惑をかけないことといった視点まで含めて、総合的に判断して決める必要があります。それが経営者の仕事であり、この決める力が経営力です。 

 

塚越氏は、繰り返し「急成長」の弊害を解き、成熟社会においては「低成長」こそが社員をはじめとした会社に関わる人々の幸せにつながることを強調します。

これはかなり過激な考え方で、少なくとも上場企業においては経営者がこのような考え方を公言しにくい風潮は、確実にあります。

非上場企業においても「低成長が望ましい」と自信を持って言い切るのは難しい。「常に限界までアクセルを踏んで、ようやく雇用を維持し、利益を確保することができる。気を抜いたら競争から脱落してしまう」という不安を、ほとんどの経営者は持っているのではないでしょうか。

伊那食品工業は寒天の国内最大手メーカーであって、ニッチな市場でリーダーシップを取り十分な利益を上げ続けているからこそ、こういう余裕のある発言ができる…というのは、一面の事実です。しかし、業界トップの会社であっても、このような考え方をする経営者はほとんどいません。

マーケットの状況や自社のポジションを鑑みて「最適成長率」を考える…という発想自体が、そもそもないのです。

一方で、稲盛氏の成長について、こう考えています。

「今に京セラをこの原町一の会社にするのだ。原町一になったら次は中京区一に、中京区一になったら京都一に、京都一になったら今度は日本一にする。そして、日本一になったら次は世界一だ」。

今はちっぽけな会社にすぎないが、京セラをいつかは世界の京セラに、という自らの夢を繰り返し語ったのです。

高い目標を設定する人には大きな成功が得られ、低い目標しか持たない人にはそれなりの結果しか得られません。自ら大きな目標を設定すれば、そこに向かってエネルギーを集中させることができ、それが成功の鍵となるのです。

常に高い成長を目指し続けることが企業の原動力であり、成功のカギである。これが稲盛氏の考え方です。いまの日本ではむしろこちらが標準的な考え方で、塚越氏の思想を現実に貫くのは、相当に勇気いることだと思います。

 

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3)人類の進歩について

人の世は、現実との妥協をしながら、少しずつ、ゆっくりと、理想に向かって歩んでいくものだと思います。災害に強く、もちろん戦争などなく、豊かで、毎日温かく幸せに暮らせる社会。世の中の誰もが願っている社会。こうした理想的な姿に向かってまっすぐと進む線を、私は「進歩軸」と読んでいます。永遠に変わることのない方向です。 

文明は後戻りしない。文明の利器は他社より早くフルに活用すること。  

塚越氏は「人類の進歩」という考えかたをします。人間社会は、誰もが楽しく幸せに暮らせる理想社会に一歩一歩近づいており、その進歩軸に沿った経営が「正しい経営」だと考えます。

そして、高度成長を経て、日本においてはすでに物質的な豊かさは満たされているのだから、企業は和やかな人間関係や文化的な豊かさを社員に提供するべきだ、それこそが人類の進歩軸に沿った企業の在り方だ、と説きます。

一方で、稲盛氏の経営哲学は非歴史的です。「人類の進歩」いう考え方をそもそもとりません。稲盛氏にとっては「いまここ」がすべてです。

ものごとの結果は、心に何を描くかによって決まります。「どうしても成功したい」と心に思い描けば成功しますし、「できないかもしれない、失敗するかもしれない」という思いが心を占めると失敗してしまうのです。

心が呼ばないものが自分に近づいてくることはないのであり、現在の自分の周囲に起こっているすべての現象は、自分の心の反映でしかありません。

「思い」は必ず実現します。物事を成功に導こうとするなら、強い「思い」を持たなければなりません。
ただ思うだけでも、「思い」は私たちの人生を作っていきますが、それが潜在意識にまで入っていくような思い方をすれば、その「思い」はもっと実現に近づいていきます。  

いまここの「こころの在り方」にすべてを還元していく、まさしくスピリチュアルな構えが稲盛経営哲学の基礎にあります。

 

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4)共同体について

経営者が自分のことばで、みんなの幸福という真の目的への思いをもって、経営理念や方針、夢を熱く語ることが大切です。「確かに社長の言うとおりだ、みんなで働こう」という気持ちで、社員がまとまってくれれば強力です。社員は陰日向なく働いてくれるようになります。  

「理念の金太郎飴」をめざしたいものです。みんなが進むべき方向、理念を共有していることが必要です。山にたとえれば、「あそこに登ろう」という明確な一点です。根底の理念は同じで、手段は個性的であれ、ということです。

社員はみんな、運命共同体です。頑張っていることや、能力があることは、見ていればおよそわかります。しかしそれも、その人一人でできているわけではありません。仲間がいてこそ達成できる仕事であり、成果です。   

いまの若い世代が本当にほしいのは、和やかな人間関係のなかで自由にのびのびと、自主的に働ける快適な職場環境です。成果主義や効率主義のもとで評価される、管理されたギスギスした関係の中で働きたいとは願っていないのです。 

塚越氏は、企業をひとつの価値観を共有した「運命共同体」として捉え、社員が同じ気持ちでまとまり、成果を分かち合う在り方を良しとします。

以下に見るように、この次元においては、稲盛氏もほとんど同じ考え方をしています。

自分と一心同体になって仕事をしてくれる「パートナー」-ともに経営の責任を負う共同経営者として従業員を迎え入れることが必要です。

人間にはそれぞれさまざまな考え方があります。もし社員一人一人がバラバラな考え方にしたがって行動しだしたらどうなるでしょうか。
それぞれの人の力の方向(ベクトル)がそろわなければ力は分散してしまい、会社全体としての力とはなりません。全員の力が同じ方向に結集したとき、何倍もの力となって驚くような成果を生み出します。1+1が5にも10にもなるのです。

 

もっとも、これまでの比較で明らかになった通り、その共同体の目指すところは相当に異なります。塚越氏が目指すのは「人類の進歩軸に沿った、楽しく快適な人生と低成長」であるのに対し、稲盛氏が目指すのは「正しく強い思いを抱いて、高い成長を目指し続け、魂を磨く」ことです。

 

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塚越氏と稲盛氏の経営思想は相当に異なります。

「人間は一生を楽しく快適にすごすために生きている」という塚越氏の思想は、個人の自己決定に至上の価値を置く、個人主義的なリバタリアニズムに短絡する可能性を秘めています。

彼の経営がそうなっていないのは「人間が楽しく快適にすごすためには、和やかな人間関係で彩られた共同体を必要としている」という人間観があるからです。

この人間観は、人間が「みんなが少しずつ譲り合うことで、みんながよくなる」という社会的ジレンマ状況に常におかれている以上、いまも将来も変わらないであろう人間社会の現実だと思います。

この現実認識があるからこそ、企業がパターナリスティックに社員に教育することが正当化されます。

しかし、その介入や教育はあくまでも手段ですから、常に「みんなが楽しく快適にすごすために役になっているか」という目的に照らしてチェックされることは言うまでもありません。

また、企業という枠組みの中に実践を限定することで「この価値観に同意できない人は会社を辞める自由がある」という意味で、最低限の自己決定権も尊重できています。

自分の幸福、自分の仲間の幸福、人類全体の幸福・・・を究極の目的に置く塚越氏の経営思想は正しく功利主義であり、できうる限り大勢の人の同意と共感を取り付けることができる指針になっているように思います。

なぜ、経営批評なのか

突然ですが、なぜ、経営批評なのか。

ビジネスとかかわりのない人ときちんと話すことができないことに、最近フラストレーションを感じている・・・これが、私のそもそもの問題意識です。

いま、経営を語る言葉の2大潮流は、稲森和夫さんの「フィロソフィ経営論」と、MBA的合理主義的経営にある。これは、書店のビジネス書コーナーに行けば、一目瞭然です。

稲盛和夫的な経営にコミットしていれば、そういう理念を共にする人と生産的に会話することができる。MBA的な経営にコミットしていれば、その理念を共にする人と対話できる。

私はどちらにもコミットできていないので、どちらの側とも、話していてなんとなく「自分のやっていること、やりたいことと違う」という感じが残ってしまう。

じゃあ、稲盛和夫的でも、MBA的でもない、不特定多数の人たちと対話できているか・・・といえば、それも難しい。

というのは、そこには、共通の文脈が存在しないから。

私が持っている文脈は、リアルで顔の見えるビジネスの現場だけになっている。

だから、ビジネスで具体的に関わっている人とはいくらでも話すことがあるし、そこには手ごたえを感じている。

でも、ビジネスでかかわりのないとは、あまり話すことが無い。

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考えてみれば、かつての「村落共同体」ではこれが当たり前だったのではないか思う。ヨソモノとは話すことはなく、そこにフラストレーションを感じることもなかった。

でも、私の中には「共同体の外にいる人と対話したい」、共同体を超えて届く言葉を自分のものにしたい、という抑えがたい欲求がある。

これは観念的なレベルだけの問題ではない。たとえば人材採用において、不特定多数の求人マーケットに対して説得的に、確信をもって自社の価値を語りかけることができていない不全感・・・という課題と直結している。

稲盛和夫的でもなく、MBA的でもない語り口で、経営を語りたい。

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言い換えれば、「自分の会社」という個別具体の文脈を離れて「経営を批評する」ことにチャレンジしてみたいと思っている。

例えば、建築業界には「建築批評」という豊かな世界がある。

建築というのは、ビジネスとしては「施主の要求を建設会社が建物として具現化して、その対価をいただく」というシンプルな商取引です。

しかし一方で、施主や建設会社の利害や個別具体の文脈を超えて、「建築は社会を変え、社会が建築を規定する」という現象そのものを言語化し、「建築そのものの価値を批評し、良し悪しを議論する」という言論空間がある。

同じように、経営というのはシンプルには「直接相対する、顧客・社員・取引先・地域社会・株主…のステークホルダーの期待に応え続ける営み」ですが、しかしそういう具体的な利害をこえて「経営そのものを語り、経営の良し悪しを議論する」ことはできるはずだと思う。

稲盛的、あるいはMBA的な文脈に乗らないと、「経営そのもの」を語ることができない現状、経営を語る言葉の貧しさに、自分自身納得できてない。もっと違った語り口があると思っている。

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しばしば「経営者は本を書くとダメになる」と言われます。これは真実だと思います。

経営の具体的で地道な現実と向き合うことがおそろかになる、自分が書いたことに縛られて柔軟な意思決定ができなくなる・・・本に限らず、ブログでもSNSでも「経営を批評する」という行為そのものが、経営にとってマイナスなのは間違いない。

「批評家」「評論家」は、経営の現場では常に「使えない奴」の代名詞です。

自分のビジネスだけを考えるなら、「経営を批評する」などというのは凡そありえないことで、だからこれまで私はそういうことをしてこなかった。

でも、たとえ経営にとってマイナスな側面があっても、「経営実践と並行して、経営一般を批評する」こと自体に価値がある、それをやってみたい、と思っている。自分自身の「納得感」のために、経営を批評する言葉を自分のものにしてみたい。

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ということで、早速、私なりの経営論をラフスケッチしてみます。

手始めに、現代の社会思想と経営論を、以下のように対比的に並べてみます。

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リバタリアニズム   ⇔ MBA経営
スピリチュアリズム  ⇔ 稲盛和夫経営
コミュニタリアニズム ⇔ (不在)
フェミニズム     ⇔ (不在)
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MBA的経営は、「自らの利害だけを判断基準とする合理的個人」の集積で世界が成り立っていると考え、合理的個人の自己決定権を神聖不可侵とするリバタリアニズムと直結している。

稲盛的経営の本質は「念ずれば叶う」「真理に倣えばすべてはうまくいく」というスピリチュアルの世界観で成り立っている。

しかし、コミュニタリアニズムフェミニズム、それぞれと対応する「経営論」はそれほど明確ではないようにおもう。

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自分自身の信念や欲求や嗜好は、個人が生れ落ちる共同体によって規定される。つまり自分のアイデンティティの中身は「偶然」のものでしかない一方で、自己決定できるレベルを超えて宿命的に決まっている、しかも、生まれ育ちの違いによって、人それぞれに違いがある。だから、スピリチュアル的な人類普遍の真理は存在しないし、人間はリバタリアン的な純粋な利己的存在ではいられない。

この人間理解が、コミュニタリアニズムの前提です。

もちろん、人生の中で、生まれ落ちた共同体を脱して新しい人生を選び取ることはできる。しかし、それもまた、「デフォルトの生まれと育ちに対するアンチテーゼ」と言う形で、結局のところ、宿命から逃れたことにはならない。自分の母語は自分で選べないし、いくら外国語を勉強しても、自分の母語をなかったことにすることはできない。

私の私たるゆえんは、生まれと育ちによって、偶然に宿命的に与えられている。

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そうすると、フェミニズム、そしてそれから派生した様々なマイノリティの当事者主権運動は、コミュニタリアニズムの一つの派生形だと理解できます。

ジェンダー・人種・障害・・・など個人のアイデンティティは、偶然生まれ落ちた社会的環境によって規定されていると、フェミニストは考える。コミュニタリアニズムフェミニズムは、「アイデンティティの偶然性と多様性」という人間観を同じくしている。

そのうえで、フェミニストは、マルクス主義的な「抑圧者⇔被抑圧者」の権力構造の世界観を持ち込む。非抑圧的なアイデンティティを持つ人は、抵抗し、社会的不正を告発する権利と責任がある。抑圧する側のアイデンティティを持つ人は、自分が抑圧者であることを自覚し、自己批判せねばならない・・・こう議論を展開する。

一方で、コミュニタリアンにとっては、権力構造の存在は重要ではない。複数の異なるコミュニティがフラットに併存していると考える。

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上記を踏まえて、4つの立場を図式化すると、こう整理できます。


         社会変革          
           *             
           *             
 フェミニズム    * スピリチュアリズム   
           *             
           *             
           *             
多様な価値******************************普遍的真理  
           *             
           *             
コミュニタリアニズム * リバタリアニズム    
           *             
           *             
           *             
         社会秩序          


スピリチュアリズムは「人間のあるべき姿は全世界共通」だと思っている。

リバタリアニズムは「個人の自己決定権は神聖不可侵で、それは全世界共通の普遍的正義」だと思っている。

両者は万人を貫く普遍的な価値、善や正義・・・を前提としている。

コミュニタリアンフェミニストは、異なる生まれと育ちに応じた「分かりあえない多様な個人」が現実だ思っている。普遍的な善や正義を主張する根拠はない、と思っている。

結局のところ、各々のアイデンティティは偶然によって規定され、世界は理解し得ない他者で満ちている。その世界観で、コミュニタリアンフェミニズムと連帯できる。

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私自身は、自覚的なコミュニタリアンです。普遍的な真理は存在しない、少なくとも人間には感知しえないものだと思っている。自分自身のアイデンティティが生まれ育ちによって偶然に規定されたもので、異なる時代・異なる場所で育っていればまったく違う人間になっていたに違いない、と考えている。

だから「万人を貫く普遍的な価値」を素直に信じられるスピリチュアリズムリバタリアニズムの鈍感さには強い違和感がある。

そして、経営の現場における実践においても、両者の思想には限界を感じている。

「みんながみんなのために少しずつ譲り合うことさえできれば、みんながよくなるのに、個人のエゴがそれを邪魔している」という社会的ジレンマ状況は人類社会における普遍的な現象です。そして、経営とはつまるところ社会的ジレンマ状況を不断に解決し続ける・・・という営みでもある。

リバタリアニズムスピリチュアリズムは、この問題をうまく解決できない。

リバタリアンは、神聖不可侵な個人の自己決定権が制限されるくらいなら、社会的ジレンマなど解決しなくてもよい、と暗に考えているように見える。だから、win-winの関係でなければ、人間関係はいつでも解消してよい、むしろするべきだ、と人を促す。

一方で、スピリチュアリズムは、「みんなが真理に目覚めれば、社会的ジレンマは解決する」と仮定している。これはジレンマ状況の解決に向けた愚直な努力をスポイルするし、「真理に目覚めていない人」を絶えず排除し続けなければ組織を維持できなくなってしまう。スピリチュアルな思想を真剣に経営の現場で追及していくと、マルクス主義内ゲバの論理と容易に直結してしまう。

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私は、フェミニストが「自分が偶然にもマイノリティに生れ落ちた」不条理を真剣に受け止め、その抑圧的構造を打開することに人生を賭けていることには、シンパシーを感じています。

しかし、マイノリティが当事者性を武器にして「当事者にしかわからない苦しみがあり、その原因は社会の無理解にある」と言う論法で周囲に自己批判を迫る戦略には疑問を感じている。

すくなくとも、私は、私の当事者性を、そのような形で表現しようとは思わない。なぜなら、そこには自分の苦しみに執着し、拡大再生産していくような、自傷的な倒錯があると思うから。

それに、他者に「自己批判」を迫る人は、他の誰かから「自己批判」を迫られることを覚悟しなきゃならない。フェミニストに、本当にその覚悟はあるのだろうか?無限連鎖的に傷つけあうことが、世界を良くする原動力だとは思えない。

フェミニストの社会変革への意志には敬意を払います。でも、その方法論には賛成できない。

私は、「誰もがそれぞれに事情を抱えて、苦しんでいること」について敬意を払い、思いやりを持って接することができたならば、それで必要十分だと思っています。そういう敬意と思いやりの連鎖こそが、社会的ジレンマ状況を一歩解消し、世界を少しでも住みやすい場所にしていく原動力になる。

敬意や思いやりの自生的な連鎖にこそ、社会改良への可能性があると思っている。

フェミニズム的理想は、コミュニタリアン的方法論によってこそ実現できる、マルクス主義的理想がケインジアン市場経済によって実現されていった、20世紀のサクセスストーリーが再演できるのではないか、と考えている。

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「自分が偶然にもマイノリティに生れ落ちた」不条理に起因する「当事者にしかわからない苦しみ」を打開するのは、抑圧構造を告発する政治運動ではなく、「相手の苦しみに対する敬意と思いやり」の連鎖だと考える。

その連鎖の起点になるのは、自分のアイデンティティを性格付けた偶然性から「脱出」しようとあがくことはせずに、その役割を引き受けて、そこに自分なりの価値を見出していく・・・という個人の覚悟だと思う。

たとえば、自分が黒人であるなら、「黒人から脱する」ことを目指すのではなく、「BLACK IS BEAUTIFUL」であろうとする。どこかの組織の責任者を引き受ける立場に巡り合ったならば、そこから逃げずにその立場に「人生を賭けるだけの何か」を見出していく。

与えらえれた役割を自分の選択として肯定することは、人間誰もが抱えている偶然の不条理に対する真摯な抵抗です。そして、自分の宿命を肯定してはじめて、他人の宿命も肯定することができる。これが「相手の苦しみに対する敬意と思いやり」の原点になる。

また、自分の受け継いだものを次世代に繋ごうとする「永遠への憧れ」が、不条理な宿命を肯定する態度の根本にある。

一個人の有限な人生を超えて、自分が偶然受け継いだものを先に進めて、次の世代にバトンを渡していくことが「尊い」という感性には、「自分が繋いでいるものはひょっとしたら永遠に続いていく"何か"かもしれない」という可能性に賭ける思い、人類の未来に対する希望がある。

宿命の肯定、他者への敬意、未来への希望。これが私の考える、コミュニタリアニズムの倫理です。

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普遍的な真理や正義を基準に何かを語ろうとしない「謙虚さ」、生まれと育ちが違えば価値観が異なることを理解できる「想像力」、自分が偶然置かれた立場をきちんと引き受けていく「責任感」、相手の苦しみに敬意をもって接することができる「思いやり」、受け継いだものを永遠へと繋いでいく「希望」・・・そういう感性が感じられる経営が、良い経営なんだ、と私は思っています。

コミュニタリアニズムが含意する、人間存在の偶然性と宿命性に敬意を払った経営を、私はしたい。

そして、これは本質的に実践の問題であり、いま展開しているような論理を現場でストレートに語ることには、意味が無い。そもそも、こういう抽象的な論理をそのまま現場で展開すること自体が、現場に対する敬意を失しているとも思うし、行為遂行的な言説と事実確認的な言説を混同している点で、知的でもないと思う。だから、もし語るのであれば、いま書いているように、現場を離れた場所であらためて語りなおすしかない。

現場においては実践に直結するシンプルな言葉で語り、経営者の日々の愚直な実践の結果として、コミュニタリアニズム的な感性が行為のレベルで展開されていくことが、「よい経営」だと思う。

「お客様に貢献し、しっかりと稼ぐ」ことが「全世界の分業ネットワークの中で自社の役割を果たす」という責任感の表れであり、「縁あってビジネスでつながった、社員と取引先と顧客にとって必要とされる存在でありたい」という敬意の表れだったりする。

あるいは、ゴーイング・コンサーンへのコミットが「偶然受け継いだものを永遠に繋いでいきたい」という未来への希望の表れだったりする。

直接的にはあえて多くを語らず、暗黙的にこういう価値観を体現している経営者は少なからず存在する。

それを、経営実践とは異なる文脈で、抽象的な論理が受け入れられる場において、言葉をつくしてきちんと肯定していくことが、私のやりたい「経営批評」です。

それは、稲盛的でも・MBA的でもない経営、私が偶然にも受けついた立場を、自分自身で肯定していくということにほかなりません。